内田百閧フ生家跡を訪ねて

「いやだから、いやだ」と芸術院会員への推薦を断った漱石の弟子は?
頑固、偏屈、我侭、無愛想のイメージがある内田百閧ヘ、岡山市古京町の造り酒屋「志保屋」の跡取りとして生まれました。
本名は内田榮造、ペンネームの「百閨vは郷里岡山の旭川の放水路「百間川」に由来しています。

内田百


古京町の生家跡付近


岡山城と後楽園を望む


内田百闍L念碑園

内田百閧ヘ、岡山市古京町の「志保屋」という造り酒屋の長男として、明治22年(1889年)に生まれました。

岡山高等小学校のときに書を、県立岡山中学校のときには琴を、第六高等学校のときには志田素琴から俳句を習いました。

東京帝国大学文学部ドイツ文学科に学び、夏目漱石に憧れ門下に入りました。

ドイツ語教師を務め、高給取りでしたが、家計逼迫、借金生活を送り、その借金生活を題材にした随筆がたくさんあります。
号の「百鬼園」は「借金」の語呂合わせのようにもとれます。

琴の宮城道雄との親交もあり、それをテーマにした短編や随筆もあります。


古京町の生家跡から少し南に行ったところ、相生橋と京橋の間の旭川左岸に、昭和60年に竣工し内田百闍L念碑園があります。
そこには、以下の文学碑があります。


「私は古京町の生れであって、古京町には後楽園がある。
子供の時から朝は丹頂の鶴のけれい、けれいと鳴きわたる声で目とさました。」



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百閧ニ俳句

岡山県職員会館「三光荘」の1階ホールの一角に内田百閧フコーナーがあります。その中に「百閧ニ俳句」の展示がありました。

「内田百閧ヘ喜怒哀楽といった人間の感情の動きだけではなく、、事の次第も巧みに描いています。
こうした表現には、若い頃から写生文や俳句を通じて物事を客観的に見る習慣を身につけていたことが役に立っているようです。

百閧ヘ、後に夫人となる堀野清子さんに宛てた手紙のなかに、『俳句は小さな文学だけれど熱心にやって居れば多少は思想や性格に影響してくる』と書き、悲しんでいる自分を傍観者的に眺めたら、その悲しみは自分の物ではなく、自分から離れた悲しみとしてて見ていることになる。
そしてその視点は俳句から得たということを語っています。」


右の生家跡に建つ句碑には、以下の俳句が刻まれていました。

「木蓮や塀の外吹く俄風」


右の内田百闍L念碑園には、以下の俳句が刻まれています。

「春風や川浪高く道をひたし」



それから、京橋の近くには百閧フ好きだった大手饅頭のお店があります。

「立春の大手まんぢゆう少し冷たき」
昭和41年



生家跡に建つ句碑


記念碑園の俳句


京橋近くの大手饅頭

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原尾島付近の百間川


国富の百閧フ墓
「20才代で岡山を離れた百閧ヘ、それ以後、再び帰ることはなかったが、少年の日を回想して、望郷の思いを込めて書かれた数々の作品には、明治の頃の岡山の情景が克明に書かれており、目に浮かぶようである。」

「今なお、お起きの読者の支持を集めている百閧フ随筆は、いずれも珠玉の如き名作で、昭和初期に随筆ブームを巻き起こすきっかけとなった。」

また、師である漱石の初期の作品群を彷彿とさせる夢幻的なあやしさは、その小説に受け継がれているとの評価もあります。

現在、ちくま文庫から「内田百闖W成」が出ていますので、新しい百闡怩発見してくれたらと願っています。

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